編集とアウトプット。自信と信頼。

仕事でも個人ワークでも『メディア』と言いながら、そこから生み出されるサービスに関しては頭固く考えてきたことに気付く。
「こうあるべき」「今時代はこうだから」みたいな言葉が先にあり、サービスを設計してきたことが多かったかもしれない。

『編集』を行うことは、なんらかのアウトプットへ繋がる。
だからこそ「他者がどう感じるのか」や、「自分を良く思われたい」という思いが、こうしたことに繋がるのではないか。

それらは新たな分野への自信のなさの現れでしかない。これに気づいた瞬間に恥ずかしく思う。社会に出て20年経つよ。

媒体問わず、溢れるメディアの中で、瞬間的な存在であればそれで良い。今乱立するニュースメディアなども直ぐに消えるだろう。
しかし、本来のメディアとして成立させるのは「自分目線の編集」だ。その筋が通るからこそ、人はその情報に価値を見出す。

「メディアはこうあるべき」という思考が、情報の中に存在を埋もれさせていく。「常識」という名の安易なトレースは、結果的に似せて、寄って、近づき、自ら埋もれていく行為だった。

『編集とは何か』を常に問うてきたはずなのに、どれだけの時間迷い続けただろう。 まだこれを書いている時点で、不安やゆらめきもあったり、更にまだまだ同業他者を気にする点はゼロには出来ていないだろう。隣の芝は常に青い。

「等身大」という言葉がよく表しているのかもしれないが、この言葉が「自分らしさ」にかかる言葉とは思わなかった。

自ら、人生を編集する。

日々の過ごし方も、興味についてもそう。本音と感性で飛びついているはずなのに、アウトプットは他人をなぞるという弱さは幸せでは無い。
最後の最後で自分らしさを失っているのだから。

そこにあるのは、他者の目線を気にする気持ち。

どこかで「他者に認められたい」と思う気持ちは誰もが持っている。好きな人から良い言葉を掛けられたら嬉しいではないか。
他人に認められることで、自分が存在する。これは社会に於いては正しい。人が最も人らしく生きる上で大切なことだと思う。

承認欲求と問題点は、認められたいと気持ちの一方通行な部分。

他者を認めることで、自分が否定されるわけではない。それぞれの得意不得意があって役割があるのだから。
互いに支え認め合うことが理想な中で、なぜ認められようとする気持ちだけが先行するのだろうか。そこに自己中心的なアンバランスさがある。

他者に認められようと怯えると、冒頭の様にアウトプットが自分らしさから遠ざかってしまう。
まずは他者を認めること。それが第一歩だとあらためて自分に刻む。

他者への信頼があれば、自信を持って自分の言葉を伝えられる。
自信を失うのは、他者を信頼していない結果かもしれない。

自分への自信の無さが、結果として相手を信用できていないことの原因につながる。
メディアやサービスを作るにあたり、信じるべき「相手」とはなんだろう?それは、マーケットやターゲットがあるかもしれないけれど、まず一番分かりやすいのは、身近な人達を基準にして良いと思う。

信頼できることこそ、自分の強みや自信に繋がる。

大学で授業を持って考えたこと、行っていること

今年の春から、大学で1授業を持たせてもらっています。具体的な制作ではなく「コミュニケーション・デザイン」という、ふんわりとしたことをタイトルに授業を進めています。

出来れば様々な大学でこの授業(という名のワークショップだと思っている)を持ちたいと考える様になってきました。単発でも機会があれば時間を作らせてもらいたいです。

『デザインによってコミュニケーションを解決させていく。』授業テーマで、たぶんシンプルな答えはこれだと思う。
ただ、「デザイン」の機能の中に「コミュニケーション」は関連して組み込まれているし、「コミュニケーション」にも様々な関係性としての「デザイン」がある。授業にこのタイトルを持つことで、その思考のループをずっと歩き続けたまま4月を向かえ走りだしてしまいました。

実は受講生にも伝えているのだけど、今回は試行錯誤しながら「コミュニケーション・デザイン」を考える方法を模索して授業の中で実験を続けています。

そう、伝える言葉を見つけるのではなくて、考える方法を探し、その実験をしています。

授業とはいえ、たぶん概論をブツブツ話しても面白くないし実感も無いと思う。あとこうした「デザイン」とか「コミュニケーション」って答えもひとつじゃ無いと思う。
だから色々な体験で例えて、理屈で考えるよりも体感して発見してもらいたいと考えて毎回授業を組み立てています。

言い訳が通じるのか分からないけれど、順序も前後したりするけれど様々なWSスタイルを組んだり。ゲスト講師を呼んだり。大学生との時間がひとつひとつ蓄積されていく中で、全体的な流れが組み立てられているので、この先の授業ではベースとなる基礎が出来上がってきました。

主に大学時代からだけど「デザイン」という言葉に向かい合って色々なことを考えてきました。

思い出に残ってるテーマは『座れない椅子は椅子なのか』というもの。ガストで数時間話したのだけど、このテーマは今でも面白いと思っている。

「座れなくても『椅子』とされているなら、それは『椅子』である。」という意見と、「座れなければ『椅子』としての機能が伴わないから、それは『椅子』ではない。」という意見。が対立する。今でも僕の中で答えは出ていない。そして、この2つの意見は交わる点がない。
世の中色々な考え方があるという例えでもあると思う。コミュニケーションを考える上で、こうした交じり合わない両者の関係を考えるのも大切だと考えている。

制作の指導なら、具体的な作品づくりを進めながらテクニックなどを教えることも出来るけれど、それはそのものでしか無いんだよね。

テクニックを教えるのは明確な「伝える対象」があるから伝える方も、教えられる方も分かりやすい。

なにかを伝える上で、言葉でなく体験してもらうことで、こちらが伝えること以上の発見を見出してくれるかもしれない。言葉を超える可能性を期待する部分もある。
義務教育の先にある教育はそれが大切なんじゃないかなって思う。与えられるだけでなくて、自ら気づいて見つけていく時間。

だけど、言葉にしないと伝わらないこともある。このバランスは難しいって毎回思っています。 これらも大学生との時間を重ねることで分かったこと。物凄いポイントで反響を受けることもあれば、思いがけず理解されないことにも出会う。 まだ「気づいて欲しい」と期待することが多くて、期待しすぎると授業終わりに「?」となってる学生の顔を見ることになる。

先生は色々考えているんだよ。ってことは、先生という立場になって気づいた。
今、人生で一番「デザイン」と「コミュニケーション」について考えていると思う。

具体的な授業内容などは、次にまとめています。

「東京どこに住む?住所格差と人生格差」速水健朗著|読了!自分の生き方を考えた。

読了!感想というより、読みながら感じたことや、住んできた街に関する自分の思い出をツラツラと。
都市の住まい方についての本なのかとページをめくって行きましたが、働き方や人と人との関係構図みたいな部分も考えさせられて面白かったです。

生活と仕事と人と場所の関係図。

今、人形町に住んでいることも、過去にCET(セントラルイースト東京)に参加していたこともあり、内容は身を持って体験して来たこともあって面白かった。

僕は何度引っ越しをしたのだろう?と考えてみたけれど、実家から旭川へ向かったのが初めての引っ越し。それから、札幌で転々としたのをどうカウントするか悩みつつ、住所持って仕事したのだけ入れれば2回。
一度実家に帰ってから六本木へ引っ越して、そこで結婚して東日本橋へ。その後一瞬実家を経て現在の人形町へ。実家へ戻る部分を割けば6回。本著を参考にすれば、日本人の平均よりも多いということみたい。

引っ越しは大変だけれども、部屋が片付くから良いと思ってる。掃除の苦手なダメな人の意見でもある。否定はしないけれど。

今の場所に住む理由は、前の東日本橋の家の影響も大きい。CETというイベントでこのエリアに友達が増えたことで、一番住みやすいと思ったから。
本著では「どうやって住む街を選ぶのか」から始まっていて、誰もが経験する「引っ越し」に照らし合わせながら、内容に引きこまれていきました。

東側エリアの話の中で「ゴミゴミとしつつも知り合いや家族のいる東側を選んだ」と映画『下町の太陽(山田洋次監督)』の話で触れられているけれども、その感情はとてもわかり易かった。

東京の東側(僕の思い出では皇居と隅田川の間)エリアに2003年当時住んでいた人たちは、地のコミュニティが固く、祭りを通してそれぞれの役割も持ちながらバランスよく暮らしていた。
開発から取り残されたエリアだったから、時代の変化もあまり影響受けず、生活文化が昔のまま(この辺りの住人曰く、田舎のまま)2000年代を迎えたエリアだった。

僕の話が2003年から始まるのは、その頃にこの東京の東側のエリアに初めて触れたから。それまでは都内の地理関係どころか、この街の地名さえ読めなかった。でも、その(地元の人曰く)田舎の人達に受け入れてもらえたことが心地よくて、この街に住みたいと思った。好奇心が旺盛で受け入れる器が大きかった。

しかし10年前くらいから、この街で問屋を営む方々は「問屋業」の機能の社会的な変化に伴って、跡継ぎも無く閉じる話しを複数聞く。彼らの息子娘達は企業に就職しているケースが多い。
しかも元々持ちビルで無借金経営している方々なので、廃業と共に土地を売り地を離れるという話も多い。ちょっとした退職金的な扱いだよ。と。

一件では小さな土地でも、近隣エリアを束ねて買いに来るデベロッパーもおり、結果的にこの街にマンションが建つ流れが同時に起きた。この数年で一気に街の景色はマンションだらけに変わった。

住人が増えたことで、街の中での大騒ぎはしにくくなったけれど、夜も休日も人通りがある街は明るい気がする。街にある飲食店を通して知り合いも増えた。もちろん閉じた人たちも多いけれど、圧倒的な絶対数を考えれば合う人合わない人いるだろう。これは別問題。

本著では地域の歴史や成り立ちなども触れられている。
またここで僕が聞いた話しになるのだけれども、馬喰町エリアは問屋街という機能であり、例えば袋物に関してはここから地繋がりで役割を持った人たちが商いをしていたと。例えば、問屋の隣の街に製造の職人が。そしてその隣にパーツ(革・素材)業が。そしてその先に革をなめす職人が仕事をしていたと。
そして問屋には、袋物業として末端までの生活を含めた業界を仕切りつつも守る機能があったらしい。
今でも、カバン問屋・メーカー、パーツ問屋と隣り合う街の中に機能は残っている。

 

本著では港区。六本木や麻布十番にも触れている。ここの話は個人的に昨日「子供の頃、麻布十番で育ちました」という人と飲みの場で隣になり話をしたので、色々な情報が重なって面白かった。
僕が住んでいた六本木も住所は六本木ながら1丁目なので、実は最寄り駅が「麻布十番」という場所。

ここには公社とNTTの社宅が、よくある団地の様な姿で建っていたらしい。建物の間に駐車場があり、それが繰り返される風景。そこで昨日話した人は、小学校時代ドロケーをしていたと。もちろん六本木ヒルズの面影もなく地下鉄の駅もなかった。たい焼きで有名な『浪花屋』はあった。そして小学校の学年では2クラス。
そんなたまたま隣に座った方の思い出話と、まるっと重なる本著の内容はそんな部分をなぞっているようだった。

本著の中で触れている内容とは少し異なるのだけれど、「都市の規模が二倍になるごとに給与は10%増えるが、物価は16%高くなる(『人は意外に合理的』から引用されている)」一節があったのだけど、僕は八王子で異なる体験をした。

八王子にある大型スーパーが、馬喰町にあるスーパーの値段より高いのだ。馬喰町のスーパーの方が品質も鮮度も良いということもある。
そして場合によっては、八王子のスーパーと日本橋高島屋の地下に置いてある野菜の値段が近いということもある。ただし、品質などは大きく異る。もちろん高島屋の方が色も形も鮮度も良い。

八王子の大型スーパーはチェーン経営ということもあり、集中した場所に野菜を集めて配送しているのだと推測する。大量買いによる仕入れ値の減はあるだろうけれども、輸送コストの多さと手間、更には収穫から店頭までの時間がかかってしまっている事に原因があるのではと思う。

これは生活を始めて、いろいろな体験を通して気付くことでもあるよね。住む場所を選ぶって難しい。

 

西高東低の呪縛の話は面白かった。
詳しくは実際に読んでもらう方が良いと思うのだけれども「知らない」ことで選択肢が変わる(知っていることだけが選択肢になる)ってことでもあると思う。人は意外に偏った知識とそこから派生する個人的な思いは強い。

都市部への人口集中と地方創生の話では、筋違いかもしれないけれど『エンジンと発電』の話を思い出した。
『エンジンと発電』とは、個々のクルマ1台1台にエンジンを搭載しエネルギーを生み出すのは効率が悪い。例えば全てのクルマを電気自動車に変えることで、発電所による1箇所で発電したエネルギーを使う方法が効率的で地球への負荷も少ないという話。
本著の「地方の全ての自治体が生き残ろうとする」という部分が、個々にエンジンを積む自動車に見えた時、物凄く効率が悪い上に「もっと異なる人の生活があるのかもしれない」と思った。

 

「なぜ都市に住むのか」では、人と顔を合わせる大切さ言葉にされて強く実感した。人と一緒に過ごすと感覚も情報も研ぎ澄まされる。それがストレスになる人は仕方ないとしても、僕個人的には誰かと話をしている時間は楽しい。

そして、今学校で大学生と接する機会を得ているけれど、その中で感じるのは彼らも人と時間を共有することを大切にしている気がする。むしろ5年前の学生達の方が「飲み」などの場に抵抗を持っていたかもしれない。「飲みも残業でカウントされますか?」なんて話もその層だったかな。

色々な情報を得ようと、隣の研究室から街の中のイベントまで、自由に行き来している姿も見えるよね。物凄く時代に適応している気がした。そして学校こそ都市部にあるべきだと強く感じた。以前はそれが出来なかった理由も本著に書いてある。

そもそも「都市部」に住むことが効率良い姿だったのだけれども、物理的に場所が得られないから、郊外へと移り住まいを作ってきたのが僕らの親の世代。
時代が変わり、タワーマンションをはじめとする大型マンションの出現により、住まいが物理的に増えたことで、ようやく正しい住まい方へとシフト出来てきた。という話なのかもしれない。人が都市部に住む姿が自然な流れという。

中央線沿い八王子で生まれ育ち、20歳を越えて北海道で数年暮らし、六本木、青山でも住みつつ、東日本橋、人形町へと住まいを変えてきた中で、本著はとてもおもしろい話しだった。

個人的に住まいを選ぶのは「友達がいる」ということが重要かもしれない。もちろん新しい街でも0から作れば良いのだけれど、勝手を知った人が近くに居る街は居心地が良い。

あとは都市のサバイバルとして、エリアの平均家賃を下回る物件の探し方もあるという考え方も備えると、住み方の選び方は幅が広がりますよね。

 

追伸:
「北海道へ脱サラしてペンション経営を夢見て来る東京の人たちが、子供が出来ると同時に奥さんが街へ移住し、結果的に離婚されて男ひとりでペンション経営している」という姿を北海道でいくつか見てきた経験も、ふと思い出す本でもありました!

次の時代に自分はどう生きるのか?実はたぶん、既に足を踏み入れていると思うよ。

こちらもインタビューで答えた内容のひとつ。


Q:今後、業界が激するような事柄が起こると思いますか?

A:取り巻く環境の変化、それに伴うアプローチの変化。共に大きな変化はあります。


「広告業界」という切り方で聞かれたので、これにはシッカリ補足としてコメントを入れ込んだんですけどね。せっかくなのでもう少し詳しく。そして、広告から切り離した点で。(諸々の物事に異論は認めます。笑)

高度成長期は頑張っただけの報酬として、目の前にぶら下がるニンジンを手に入れる競争が一般の生活だったのだと思う。

見ていないから想像でしかないけどね。でも、三種の神器とかと言われる様に富の象徴としての手に触れられるモノが元気良かったと思う。
それは洗濯機やテレビなどの家電、自動車、家や土地。それらを手に入れる事が目の前の目標(ニンジン)となって我武者羅に働いたのだと思う。お金を使う為に稼ぐわけだから、経済的にも健全な状況ではあるよね。

物理的な満足の次には体験に興味が移っていく。

家電も一通り手に入れて、自動車もある。気持ちにゆとりが出てきたら「体験」に対してお金を使う様になっていったと思う。たぶん僕らの子供の時代がここに当てはまってるかもしれない。

旅行や遊園地などの体験にお金を使う割合が増えたんじゃないかな。海外旅行とかも一般化していくのはこのタイミングだと思う。別荘などのフレーズも盛り上がったのはこのあたりかな。

バブル期に重なり、遊びにお金を使うのが一般家庭にもあったんじゃないかな。

不況時代もお金は動き続けて、人は情報を買うようになった。

ネット時代でもある不況時代。惰性で進む時代でもあった気がする。不況という状況が具体的に財布に響いてくるまでに時差はあったんじゃないかな?

とはいえ、家も家電も自動車も持っている世帯は多くて、大きな買い物が必要無かった時代でもあるのかなって思う。

でも、会社勤めであれば減額されたとしても給料は支払われ続けるわけで、結果的になんらかにお金を使うという経済活動は続くわけです。文明として。

で、それぞれの興味は「情報」に目を向けられたのではと。

ネットの存在は大きく、画面を眺めながら時間を過ごしたり、エンターテイメントとして楽しんだり。色々な欲求を叶えてくれている。
人との対話も、ゲームも、映画も、音楽も。大きく言えば、遊びも仕事もこれ一本。となると、そこに割くお金は増えるよね。

で、Amazon、iTunesと、気がつけば外国の企業のサービスを日常使いで活用していたり。国境というボーダーラインを自然に超えちゃった。

これからはプレタポルテからオートクチュールへ

さて、これからの時代はどうなるの?という動向は既にあって、たぶん既に「大企業が大量生産したモノ」を「多くの人が手にしたい」という時代は終わっているのかなと思う時がある。

大量生産された既成品よりも、ひとつひとつオーダーメイドの一品モノへ。本当に欲しいものに出会える環境に時代がシフトしていると思う。

これはプロダクトだけに限らず、サービスや人材についても同じことが言えると思いますわ。

さっき読んだ「不格好経営―チームDeNAの挑戦」にも『あと10年もすれば、組織に属して仕事をするスタイルは主流ではなくなるだろう』とあって、「おぉ、同じ感覚!」と共感したのだけれども、「個人として何を得たいのか」「個人として何を与えられるのか」がより明確化される社会になって来ていると思う。

で、そのパーソナルな需要と供給がマッチしていく社会。企業組織でドバっと動かすのではなく、それぞれが小さな経済を生み出しつながっていく。

分かりやすいのは、手に職があれば良いんだけど、存在自体がお金になる時代にもなるかもしれないなって思う。

で、すごく冷静に客観的にこの社会を眺めると、まるで原始時代だよね。
狩りが得意な人が肉を捕り、加工が得意な人が武器や装具を作り、農業が得意な人が野菜を作る。占い師も居れば、歌が得意というのも居ただろうし。そんな時代だよね。

一回りして人間の関係がそこに落ち着く気がする。

物々交換や地域貨幣に近い感覚での経済が既に見え隠れしていて、まだ実際には国の発行する貨幣がツールになっているけれど、これも意味が大きく変わってくるんじゃないかな?って思ったりもするよ。

働く上で大切にしていること。あらためて問われて、言葉にまとめてみた。

「学校の課題で社会人にインタビューを」ということで、インタビューを受けた。これに答えながら、ちょっぴり自分の頭のなかも整理出来たのでアウトプット。


Q:働く上で大切にしている事を教えてください。

A:働く上で大切にしていることはいくつかあります。「楽しいと思えない仕事は受けない」とか、「筋を通す」「貸し借りはしない」とか、パッと浮かぶものはそんなところでしょうか。


うーん?と考えて出てきたのはこの解答だった。

「楽しいと思えない仕事は受けない」は僕の中では大切な柱でもあるのだけれども、「依頼は全て受けるべきだ。それがプロだ」という意見もあるだろうと思うし、それも理解は出来る。でも、難しいのですよ。

自分が楽しめない、興味を持てない案件は、無意識に相手に対して失礼な対応や結果になりがち。経験談として。
もちろん、手を抜くという事はせず精一杯答えを出そうとするのだけど、どうしても集中力が切れる瞬間がある。その時の落差が大きいと感じるのです。

これは生まれた結果に対しても責任を持ちにくくなるので、クライアントの為にもプロジェクトの為にも、他の方を紹介するなどの対応をしている。
状況によっては「あー、この報酬は欲しい!」というタイミングもあるけれど、やはり断ることも礼儀かもしれないと考える様になりました。

「筋を通す」という言葉に納得した現代語訳

「筋を通す」は、なんだか任侠っぽいフレーズではあるのだけれども、実は物凄くシンプルな事で「自分がされて嫌な気持ちになることは、他人にしない」と翻訳することが出来ると思うんですね。

これって子供の頃に教えられたりしますよね。義理とか道理とか、上下関係とかそういう意味も「筋」にはあると思うのだけど、どうも現代の人との対話の中でしっくり来ない部分も感じていました。

何か良い言い換え方は無いだろうか?と思い浮かんだのはコレでした。

どんな状況であっても、ここに繋がってくると思うんですよね。能動的にも受動的にも。自分に関係する人たちは、周りで笑顔で居て欲しい。素のままで。

「貸し借り」はお金だけの話ではないなと思う

色々な案件に参加する中で「次はこうしよう」みたいな気持ちが湧くときはあると思う。請求に関しても「次からは、しっかり取ろう」とか。でも、この次回への期待って良くないんですよね。

案件毎に必ず自分の中で落とし所を見つけて、しっかり着地させること。これってとても大切だなって思う。

変に他人に期待を押し付けてしまうことにも繋がるし、逆に受けることにも繋がるし。まぁ人間関係の中でギコチナさを生む原因のひとつ。

お金の貸し借りも良くないけど、「恩」みたいな思いは絶対にダメだよね。

仕事に集中することや、結果を出す上で不必要な思いや無関係な要素を持ち込まないことこそプロフェッショナルなのかなって思う。

個人が出来ること、デカイところが出来ること

個人で動いていても、情報を追いかけるウチに大企業がやる活動にあこがれてしまう気持ちが出てくる。なんだろう「カッコイイ」とか、「楽しそう」とか。

やっぱり「楽しそう」という空気を生み出すのがそもそも上手だし、ターゲット層に自分が入っていれば、そこに素直に反応するのも自然なことだよね。
ただ、自分がやりたいことをそこに重ねすぎてしまうと、本末転倒というか残酷な結末が待っていたりもする。

自分のサイズを知ること。そして、自分が出来ることを知ることが大切。メンタル的な状況によって、過大評価も、過小評価もしがちなポイントなので、周りの人達と出来る限りこうした話はしておくと自分が見えてくるのかもしれないね。

そして、大切なのは「自分のセンスを信じること」。あまりにも社会に流れる情報が自分の好みとかけ離れていても、それは自分が社会から離れたコトではなく、まだ社会が気づいていないだけかもしれない。

自分の好きを「こういうことが面白いと思う」と発信することで、必ず共感する人たちがある。結果としてそれで食べれる事になるかもしれない。世界には60億人70億人と人が生きているらしい。

色々な情報ノイズに惑わされず、自分を信じて追い続けること。隣の芝は常に青く見えるけれど、他者から見れば自分の庭も美しくみえている事を知ること。
必ずしも誰もが憧れる庭を作る必要は無いけれど、自分が「この庭が好きなんだ」と言えることが大切なのかなって思う。

巨大企業に立ち向かおうとしたり、真似をしようとしても、人力も経済力も及ぶことは無いわけで、自分のサイズから出来ることと向き合うべきだろうね。
結果的に追いぬくことも、真似されることだってある。巨大組織に憧れる立場なんて凄くないか。

そこには、それを意識したスタートではなく、自分の見えている確実な一歩があったはずなんだよね。それを忘れないようにしよう。

 

安い労働力、過度な自己評価。適正に評価される場を、自分の未来を創ろう

「こんなに素晴らしい日本」という取り上げられ方はテレビにも雑誌にも多い。でも果たして本当だろうか?

賃金はアジア圏の中でも低く、豊かな国とは言い難い状況がある。でもこの国の中にいるのであれば、相対値でしか無く、その結果メディアに踊るのは「格差社会」の文字。実際には世界的な目線としての絶対値で見れば、その格差で計り知れないもっと大変な状況がある。

ガラパゴスであるのなら、ガラパゴスとして閉じたまま独自の進化を遂げれば良い。たぶんそれは平和の象徴。そこへ外からの文化・文明が入り込むと、不幸が起こりえるだろうと、昔偉い人が言ったとか言わないとか。

日本人のプライドは高いと思う。だから先のメディアの様なタイトルが日本人の心に響く。仕事に関しても同じで、品質管理についてのポイントも高いと思う。賃金に対してのオーバークオリティも見え隠れする。価格以上の答えを出すのが日本人の良い面であり、時に弱い面かもしれない。

良い物を作り上げるのは大切。手を抜くのは良いとは思わない。ただ、それだけの仕事をしたのであれば、相応の評価として賃金を得るべきだろう。
寝る間も惜しんで働く様なカタチで、自分の命を安売りしては結果的に評価を下げることになる。

自分を適正に評価されるパートナーや顧客を見つけるべきだろう。自分が心地よく働ける環境は自分で探し作ることが必要と思う。
自分自身に何が出来るのか?適正に評価される環境とは何か。問いながら未来を創ることが生き抜く手段かもしれない。