街に住人が責任を持つこと。街は人の為にある。

CETを通して『地元』というのを考えるキッカケをもらった。
僕が生活してきた八王子や北海道、六本木や青山に「コミュニティ」はあったけど『地元』という感覚は薄かったと思う。

特にキーワードとして『町会』という存在。

もちろん育った街に『町会』は存在していたし、夏祭りや子供会などもあったけど、影響力を持っているという雰囲気は全くなかった。
子供の立ち位置で、なかなか接点が無かったってこともあるかも。祖父母は隣組の様な感覚で繋がっていた気もする。
それ以上でも以下でもなく、それぞれの生活がメイン。

CETで出会った『町会』。まず最初に出会ったのは東神田の町会なのだけど、「街への責任」みたいなのが強くて、このエリアでの出来事に関しては責任を負うという迫力があって、実際そうだったと思う。
だから町会の協力が得られれば可能性が大きく広がるし、何をするにも最初に相談に行くのは町会だった。

これはそれぞれ商売している人が大半ってこともあるのかもね。今でも千代田区中央区あたりの町会の集まりは18時とかからで早いし。。。勤め人向けな感覚は薄い。

そんな街の『町会』と僕らよそ者を繋げてくれた人が去年亡くなった。実際の命日は数日前なのだけど、僕が聞いたのは去年の今日。
そういう意味では本日が命日。

街には町会が必要だ!と思えるのも、こうした経験や町会という存在による影響力の強さ、そして趣味や仕事では無く、同じ場に住んでいるからという理由が結びつけるコミュニティの面白さ。幅の広さ。

それを僕が持論として言えるのも、そうした人が居てくれたから。

街が昔のまま残っているということは、文化として風習として、効率化出来ない地元ルールと責任が残っていると知りました。
なかなか言葉としてまとめるには時間がかかりそうだけれども。

街のことを考える時、人の存在って強いなと思う。街は人の為にあるべきだし、人は街を作る責任がある。
それは行政でも法律でもなく、町会だと思う。

シミズバーという手作り集会所

shimizubar

mixiでチェックすると、2007年頃の話。
大伝馬町の「内田ビル」の屋上にて、毎週「シミズバー」という名の時間を作ってました。

すでに移動する前の「bigote」はあったものの、まだまだ人が集まる場所(飲食店)が少なく、
だったら酒を買っておくからみんな来なよ。
お酒飲んでもいいけど、気持ち払ってね♪というノリで、
ビールやらカクテルやらをみんなで作ったりしてました。

当時はMLでインフォメーションしてました。mixiは活用されてたものの、SNSよりもメールの方が気軽だった時代だったのかも。
会員制バーに見立てて『日本橋PRIVATE BAR』なんて呼んだりもしてましたね。

思えばいろんな人が来てくれたなーって思うことも。
馬場正尊さんとかも、一度カウンターに立ってもらったりしました。

街に人が滞留するには、カフェやバーが必要だなと感じつつ、
『場所さえあれば、人は集まるんだ!』とも気付かされた時間でした。

今は内田ビルも変わりつつありますが、
1F、B1にはゆかいさんが入ってますね。

しかし当時の写真が無い。。。

東日本大震災と地元コミュニケーション

災害当時は東北地方太平洋沖地震と呼ばれてましたね。
僕は松戸でこの地震を体験しました。
MAD City(まちづクリエイティブ)の企画で、とりあえず集まって仕事をする。
という、本当にひとつの大きなテーブルでそれぞれの仕事をするという
ただそれだけの事が楽しそうで、半ば僕から擦り寄って遊びに行った感じです。

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僕はここまで大きな地震を体験したことがありませんでした。
ただ、寺井さんは神戸の震災を体験していることもあり、
的確な指示で避難誘導をしてくれた記憶があります。

気のおけない友人達と一緒だったことは、
平常心でいられる環境であり、今更ながらに感謝しています。
実はこの時バッタネイションの岩沢卓さんも誘っていたので、
彼も巻き込んだ形に。

松戸で体感した地震そのものは、
何度かの大きな揺れと、繰り返される小さな揺れで、
駅前の歩道には人が溢れつつ、ビルの外壁が崩れるのをただ見ていました。
自然の前で人って無力だなってあらためて思います。

道路は渋滞で動かず、電車は不通となり、
早い段階で東京へ戻る事を諦めました。

街づくりの活動をしている寺井くんの元には、
街の方々からの情報が次々と届き、
その後、一緒に街を回った際には、窓ガラスが割れ落ちる、タイルが剥がれる、内装が崩壊するなどの建物の被害や、飲食店での割れ物の被害などを目にすることとなりました。
写真は川岸の地割れ。

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松戸という街の特性からか、都内へ働きに出た方々が戻れなかった様で、
夜は駅前とは言え人通りが一気になくなり寂しい夜の景色の中、
チェーン系ファミレスにて友人達と9名で食事を普通に過ごします。

この時はテレビも見られず、途切れ途切れのネットで確認した東北の被害に、
まだまだリアティがありませんでした。

そして、夜宿泊する場所に困っていた我々は、
町会の方々の好意で、町会の施設にて一夜を過ごすこととなりました。

とても綺麗な施設で、床暖房や無線LANも完備。
一時的な待機所としては、とても恵まれた環境の中で過ごすことが出来ました。
こんな状況下でも馬鹿話をして笑い合える仲間と一緒だったこと、
町会のオヤジが突然乱入して、笑顔で空気を和らげてくれた事、
非日常の中では「笑い」がなにより大切なことと実感しました。

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複数の余震によって、皆が眠りの浅いままに朝を迎えましたが、
これまた町会の方から暖かい珈琲と暖かい塩ニギリを振る舞って頂き、
気持ちを落ち着かせることが出来ました。食もまた強いです。

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そして、まだ正常に戻らないながらも運行が復帰したJR常磐線にて上野へ。
都内へ向かう線は比較的空いていましたが、到着した上野駅では大混乱状態。
上野駅からは徒歩にて岩本町の弊社駐車場まで移動。

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そこから歩ける範囲でCETエリアの状況を収集して周りましたが、
ガラスドアやガラスブロックの破損、ビル壁面の破損など様々ながら、
顔を合わせたみんなに笑顔があったことが安心に繋がりました。

CETエリアの中でも、岩沢さんの運営する「Co-Net」は、
8階という環境もあり、部屋の中はぐちゃぐちゃ。
ここでようやく今回の地震の大きさを実感した感もありました。

その後はOM CHAN TONEへ向かい。
炊き出しとして煮麺をいただきながら、被害の様子などを聞き、
当日夜は皆で集まって過ごした事などを聞きつつ、
こうした場所、顔の見える場所があって良かったとも思う。

一休みの後自動車にて八王子方面へ移動。

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この頃には渋滞もありませんでした。
途中新橋には人影も無く、六本木では海外の方々が目立ちましたが基本的には
普通に日常が流れています。ちょっと違和感を感じたのを覚えてます。

高速を避けて下道で順調に移動完了。そのまま八王子の実家へ。

松戸でもそうでしたが、CETエリアにも言えることは、
町会との連携があると安心出来るということ。
言葉では伝えきれない程に、人とのつながりが心強いと思う体験でした。

またいつ大きな震災があるかわからない。
そんな事も思いながら、この体験は忘れる事はないと思います。