その街に踏み入れた時の感動を思い出してみると、その街の未来が見えてくる様な気がする。

こんなブログ記事を見つけた。写真の引き伸ばした荒さが時代を感じさせるけれど。馬場さんの記事。

http://open-a.co.jp/w/?p=1979

TDB-CE(Tokyo Designers Block – Central East)後のCET(Central East Tokyo)の起こる瞬間の記事ですね。面白いな。難しい言葉無しに、CETのことを言葉にして出ているのって貴重かも。

ブルックリンのD.U.M.B.Oでの取材の話は、馬場さんよりも原田さんからよく聞いていて、阿野さんの写真を見て純粋に興味を持った。でも、どこか異国(異国だけどw)の話であって、僕にとっては八丁堀とかにリアリティあった。

中央区とかあまり知らない。銀座と日本橋の位置関係さえ曖昧で、車で銀座走ってて、気づいたら日本橋を通過した時の驚きは今でも覚えている。
東京の地図が頭のなかで繋がっていなかったんだよね。地下鉄やJRを使うと、それぞれの駅周辺でのブツ切りマッピングが出来上がる。隣の駅は知ってても、それぞれの道がどこにつながるのか、実はあまりよく知らない。

そんな時に知ったのが八丁堀の8bath。

遊びに行って出会ったのが武藤くん。そしてこのプロジェクトが動き出した瞬間に立ち会えて、そして今日本橋に住んでる。

この時、このテキストを書いてた馬場さんもそうだけど、このプロジェクトに関わるみんなが動くモチベーションの源ってなんだったんだろう。

ものすごく熱い思いを感じるよね。実際現場もそうだった。
なんか冷めた感じの視点から振り返るのは嫌だな。。。

D.U.M.B.Oの現状について、ちょっと調べてみよう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ダンボ_(ブルックリン)

今更だけどwikiで見るとニューヨーク大学と共にニューヨーク市が支援してるんだね。中央区、千代田区と、東京大学とかでどうにかならないものかな?

未来を描けばいいんだよね。この街のストーリー。
人が行き交い街が賑わう。交通事情も良く、電車も複数路線使える。羽田も成田も一本。東京駅も近いし。

この街での働き方、生き方。見てみるのが一番早い。これこそ次のステップの作り方なんだよ。

街に住人が責任を持つこと。街は人の為にある。

CETを通して『地元』というのを考えるキッカケをもらった。
僕が生活してきた八王子や北海道、六本木や青山に「コミュニティ」はあったけど『地元』という感覚は薄かったと思う。

特にキーワードとして『町会』という存在。

もちろん育った街に『町会』は存在していたし、夏祭りや子供会などもあったけど、影響力を持っているという雰囲気は全くなかった。
子供の立ち位置で、なかなか接点が無かったってこともあるかも。祖父母は隣組の様な感覚で繋がっていた気もする。
それ以上でも以下でもなく、それぞれの生活がメイン。

CETで出会った『町会』。まず最初に出会ったのは東神田の町会なのだけど、「街への責任」みたいなのが強くて、このエリアでの出来事に関しては責任を負うという迫力があって、実際そうだったと思う。
だから町会の協力が得られれば可能性が大きく広がるし、何をするにも最初に相談に行くのは町会だった。

これはそれぞれ商売している人が大半ってこともあるのかもね。今でも千代田区中央区あたりの町会の集まりは18時とかからで早いし。。。勤め人向けな感覚は薄い。

そんな街の『町会』と僕らよそ者を繋げてくれた人が去年亡くなった。実際の命日は数日前なのだけど、僕が聞いたのは去年の今日。
そういう意味では本日が命日。

街には町会が必要だ!と思えるのも、こうした経験や町会という存在による影響力の強さ、そして趣味や仕事では無く、同じ場に住んでいるからという理由が結びつけるコミュニティの面白さ。幅の広さ。

それを僕が持論として言えるのも、そうした人が居てくれたから。

街が昔のまま残っているということは、文化として風習として、効率化出来ない地元ルールと責任が残っていると知りました。
なかなか言葉としてまとめるには時間がかかりそうだけれども。

街のことを考える時、人の存在って強いなと思う。街は人の為にあるべきだし、人は街を作る責任がある。
それは行政でも法律でもなく、町会だと思う。