マンションポエムについて話題になったので思考を巡らせたメモ。
マンションポエムはマンション広告に載ってる、イメージコピーというか、前後の接続を無視した感じの結論の無い文章。
俵万智さんとか、谷川俊太郎さんが、本気でマンションのコピーをうたったらどうなるのだろう?とか興味はある。
で、マンションポエムの意味不明感は、実は「詩」の理解のされかたのひとつの形式なのでは?と思った。
文化的なモノって、理解しようとする前にすでに持ち合わせている語彙の中で無理やり解釈をしようと結論を出す人は多い。
代表されるのは「ピカソ」の絵を見て、『私にも描けそう』というのも、グチャグチャに適当に絵の具を走らせて『ピカソ風』という感じ。
つまり、マンションポエムはこの「詩」バージョンなのでは?
それにしても、広告としてバンバン印刷され、DMに、新聞広告に、電車の広告にと、世間の目に触れる機会が多いのはちょっと辛い。
圧倒的なボリュームで迫った結果、ひとつのジャンルみたいにはなってると思うけれど、これどうなんだろう?数があれば成立出来る強みなのかもね。
それで、なぜグチャグチャに言葉を並べたマンションポエムが、マンションの広告にばかり使われるのか?
これはマンションという商品自体が、実は同じような立ち位置にあるからこその相性の良さなのでは?という仮説。
不動産としてマンションを購入する時、他の投資と同じで複数ある方がリスクが分散出来る上に、身動きも良くなる。
ただ、こうした視点で見る人の方が稀だよね。
マンションを購入する人は、そこから利益を得ようとすることを考えず。
どちらかというと、住居として住まいを手にいれる。賃貸より持ち家。というなんか冷静に考えると、あまりメリットの無い目的に向かって盲目的にマンションを手に入れようとする。
社会の流れがそうさせてる感じはあるけれど、人生で一度の買い物!みたいな感覚は少し思考を停止させる怖さを持つ。
実際高額なプライスは付いているし、これを購入することで社会的ステイタスが一段階上がったような気分になる。実際責任も多々負うわけで、今までの生活とは確実に変わるのは確実。そんな心境だろう。
この心理の中にいる人に向けた広告ってどう出すだろう?
そう考えると、実はあまり具体的なコピーを書きたく無いのが販売側の心理。マンション(分譲地もそうだけど)は大型化すればするほど、とにかく数が必要になる。
少しでも購入に興味があれば、その目的とか思いとかどうでも良くて、ローン審査さえ通ってしまえば、ありがたいお客様ですよね。
だとすると、あまり具体的な宣伝文句は人を選ぶことになる。
少しでも「?」が頭に浮かんだだけで、この高額な商品を選ば無いという客層は多いだろう。それこそ「一生に一度」なのだから、すべてに於いて満足した商品を購入したい。
となると、当たり障りなく、読み手側が勝手に「良いように解釈してくれる」キーワードが並んでいれば良い。
日常では使わない様な難しい「言葉」だったり、難しい「漢字」だったり。さらには、どうにでも捉えられる(でもポジティブ方向へ)という言葉を羅列させれば、勝手にそこでの生活を良い方向へ妄想してくれる。
そこに住むことがステイタス!となれば、もう完璧。
でもさこうした売り方が、街の祭りや小学校の運動会に苦情だしたりする住人を生む気がするんだよね。
苦情出す人が問題なのではなくて、実はこうした勝手に妄想させる商品イメージの植え付けが、勝手なそこでの生活を妄想させて、少しでもその妄想した生活と異なるノイズは苛立ちを感じてしまう。仕方ない構図じゃない?
出来る限り多くの様々な層を取り込もうとした結果、誰もが勝手に解釈できるマンションポエムが与える悪影響って方向性も議論して良いのかもしれないね。