時代が求めるニーズに都市も地方も関係は無い。選択肢が増えたことで加速している。

地方の店作り。例えば海外を含めた都市部から移住した人の店がピックアップされやすかったり、人気が出たり。もともとあったお店とは異なる扱われ方がある。

これ、ポイントは店作りに大切な雰囲気づくり。『センス』なのだと思う。これはけしてお金をかければ良いって話では無く。たぶん予算を使う上での「優先順位」と、問題解決としての「アイディア」の問題。

競合が多く鍛えられる場で育った人は、どんな場所でも強い。

都市部からの移住者(出店者)は、そこが鍛えられていると思う。どんなことでも鍛えられた人間は強い。競合が多い場は常に戦い。手持ちのお金が限られるだけに、常にアイディアが必要となる。そんな場。

多くの新店舗が進出する背景に、消えて撤退する店が同じ数だけある。

そんな場に居た人間が、競合が少ない場へ出店することは自然な流れのひとつでもあり、そのエリアに惚れた人間であれば、更に本気で立ち向かう。生半可な店舗が太刀打ちできる訳がない。ピックアップされやすいのも自然な流れ。

そう、大切なのはセンス(頭脳)なのだと。

良き時間の重ね方で時代を経た場は強さがある。

地方に出向いた時に、興味を沸かせるお店は雰囲気が良い。オーラがある。外から見た箱のあり方と、その周りの環境との関係性。

老舗として、そこで積み重ねてきた時間が店の雰囲気まで育てる店作りがある。扉を開けて中に入りたい。その前に、そもそも目を引くことも大切。それを持つ店舗は時間と共に進化・成長がある店と思う。

一方、それに立ち向かうべく新しく進出するには、見た目にエイジングを施したところで本物には敵わない。新しい店を作るなら、店構えが大切。

求めるニーズに対応できるのか。競合が業界を育てる。

例えば、「若い世代は都市部の雰囲気が好きなだけ」なんて言われるけれど、それはやはり「その時代で求められる場」がそこにあるわけで、住む場所は関係無く、消費者は自分が求める場所へ向かうだけのこと。

複数の通販などの選択肢が増えた中、わざわざ自分が心地よくなれない場で消費をする必要は無くなった。

そんな状況でも「時代が求める場が集まる場所」それが都市部であって、地方は圧倒的にニーズに間に合っていない。そもそもそこまで投資する必要が無いというのが現実だろう。

どちらかといえば、都市部で出店したとしても、そのエリアだけなく地方から客を呼び込むことが出来るか否か?その宣伝力と発信力、ブランディングに対する切磋琢磨は凄まじいものがある。

競合としてのライバルが居なければ、新たに投資する必要は無く、メニューづくりや品揃えさえ時代に追いつけば良い。そう、先に書いた「都市部の日々の戦い」とは正反対だ。

そのデザインや商品が生まれた背景を見出す力。

ただ、そのニーズの上辺だけを拾ってしまうと、2〜3年後にある「時代遅れ感」は半端ない。たまに中途半端な年代の流行をコピーしたまま、紫外線に焼けた看板を駅前の一等地に見つけると残念に思う。(それはそれで面白いと思う反面、一般的では無いと思ってる)

進出時にニーズを追いつつも、時間を重ねることで成長する店作り。つまり時間を含めたデザインが必要なんだ。これは鍛えられたセンス(頭脳)が必要。

本当に「良いもの」、そして「そこで続けていくこと」。

そこで店を出すということは、そこで時間をかけて店を含めたエリアと共に生きるということだと思う。目の前のお金を追うばかりでは、ここは見逃すことが多い。でも、長続きさせるにはこれが大切。

どんな商売でもイニシャルは抑えたい。走り出したら、小さくともそれなりに回収できるビジネスである必要もある。ただ焦りは良くない。3年は眺めつつ計画を練りたい。

魅力的な店舗と店主。そして街の関係。

自分が作りたい店、提供するサービス、それによって喜ばれる顧客。それらをイメージしながら生み出す場所。それを自分の財布を見つめながら、一切妥協せずに実現できるか?
限られた条件の中で、最善を尽くすこと。あまりにも弱気になって、優先順位を間違っていると感じてしまう場があるのも事実。

ただ、それなりに中途半端な店作りのまま、それが継続することもある。それは競合が居ないからという状況なだけであって、エリアとしては危機感を持つ必要もあると思う。

その街へ「出店したい」と思う店が増える様な環境づくりは、街のブランディングにもつながる。街としての様々なニーズに対応できる幅広い度量と、クオリティを見る力が求められる。

街には複数の顔がある。そのバランスが欠ける事に危機を感じる。

間違えないで欲しいのは、街に「センスの良いものだけを並べよう」ということではない。街は様々なニーズがあって幅広い数の店がある。それらが良い意味で共存できること。それが出来る街が実は少ない。

どちらかに偏るまちづくりが多いこと。これは一時の安易な遊園地でしかない。そんなハリボテに未来は無いのだ。

その街に踏み入れた時の感動を思い出してみると、その街の未来が見えてくる様な気がする。

こんなブログ記事を見つけた。写真の引き伸ばした荒さが時代を感じさせるけれど。馬場さんの記事。

http://open-a.co.jp/w/?p=1979

TDB-CE(Tokyo Designers Block – Central East)後のCET(Central East Tokyo)の起こる瞬間の記事ですね。面白いな。難しい言葉無しに、CETのことを言葉にして出ているのって貴重かも。

ブルックリンのD.U.M.B.Oでの取材の話は、馬場さんよりも原田さんからよく聞いていて、阿野さんの写真を見て純粋に興味を持った。でも、どこか異国(異国だけどw)の話であって、僕にとっては八丁堀とかにリアリティあった。

中央区とかあまり知らない。銀座と日本橋の位置関係さえ曖昧で、車で銀座走ってて、気づいたら日本橋を通過した時の驚きは今でも覚えている。
東京の地図が頭のなかで繋がっていなかったんだよね。地下鉄やJRを使うと、それぞれの駅周辺でのブツ切りマッピングが出来上がる。隣の駅は知ってても、それぞれの道がどこにつながるのか、実はあまりよく知らない。

そんな時に知ったのが八丁堀の8bath。

遊びに行って出会ったのが武藤くん。そしてこのプロジェクトが動き出した瞬間に立ち会えて、そして今日本橋に住んでる。

この時、このテキストを書いてた馬場さんもそうだけど、このプロジェクトに関わるみんなが動くモチベーションの源ってなんだったんだろう。

ものすごく熱い思いを感じるよね。実際現場もそうだった。
なんか冷めた感じの視点から振り返るのは嫌だな。。。

D.U.M.B.Oの現状について、ちょっと調べてみよう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ダンボ_(ブルックリン)

今更だけどwikiで見るとニューヨーク大学と共にニューヨーク市が支援してるんだね。中央区、千代田区と、東京大学とかでどうにかならないものかな?

未来を描けばいいんだよね。この街のストーリー。
人が行き交い街が賑わう。交通事情も良く、電車も複数路線使える。羽田も成田も一本。東京駅も近いし。

この街での働き方、生き方。見てみるのが一番早い。これこそ次のステップの作り方なんだよ。

街に住人が責任を持つこと。街は人の為にある。

CETを通して『地元』というのを考えるキッカケをもらった。
僕が生活してきた八王子や北海道、六本木や青山に「コミュニティ」はあったけど『地元』という感覚は薄かったと思う。

特にキーワードとして『町会』という存在。

もちろん育った街に『町会』は存在していたし、夏祭りや子供会などもあったけど、影響力を持っているという雰囲気は全くなかった。
子供の立ち位置で、なかなか接点が無かったってこともあるかも。祖父母は隣組の様な感覚で繋がっていた気もする。
それ以上でも以下でもなく、それぞれの生活がメイン。

CETで出会った『町会』。まず最初に出会ったのは東神田の町会なのだけど、「街への責任」みたいなのが強くて、このエリアでの出来事に関しては責任を負うという迫力があって、実際そうだったと思う。
だから町会の協力が得られれば可能性が大きく広がるし、何をするにも最初に相談に行くのは町会だった。

これはそれぞれ商売している人が大半ってこともあるのかもね。今でも千代田区中央区あたりの町会の集まりは18時とかからで早いし。。。勤め人向けな感覚は薄い。

そんな街の『町会』と僕らよそ者を繋げてくれた人が去年亡くなった。実際の命日は数日前なのだけど、僕が聞いたのは去年の今日。
そういう意味では本日が命日。

街には町会が必要だ!と思えるのも、こうした経験や町会という存在による影響力の強さ、そして趣味や仕事では無く、同じ場に住んでいるからという理由が結びつけるコミュニティの面白さ。幅の広さ。

それを僕が持論として言えるのも、そうした人が居てくれたから。

街が昔のまま残っているということは、文化として風習として、効率化出来ない地元ルールと責任が残っていると知りました。
なかなか言葉としてまとめるには時間がかかりそうだけれども。

街のことを考える時、人の存在って強いなと思う。街は人の為にあるべきだし、人は街を作る責任がある。
それは行政でも法律でもなく、町会だと思う。

シミズバーという手作り集会所

shimizubar

mixiでチェックすると、2007年頃の話。
大伝馬町の「内田ビル」の屋上にて、毎週「シミズバー」という名の時間を作ってました。

すでに移動する前の「bigote」はあったものの、まだまだ人が集まる場所(飲食店)が少なく、
だったら酒を買っておくからみんな来なよ。
お酒飲んでもいいけど、気持ち払ってね♪というノリで、
ビールやらカクテルやらをみんなで作ったりしてました。

当時はMLでインフォメーションしてました。mixiは活用されてたものの、SNSよりもメールの方が気軽だった時代だったのかも。
会員制バーに見立てて『日本橋PRIVATE BAR』なんて呼んだりもしてましたね。

思えばいろんな人が来てくれたなーって思うことも。
馬場正尊さんとかも、一度カウンターに立ってもらったりしました。

街に人が滞留するには、カフェやバーが必要だなと感じつつ、
『場所さえあれば、人は集まるんだ!』とも気付かされた時間でした。

今は内田ビルも変わりつつありますが、
1F、B1にはゆかいさんが入ってますね。

しかし当時の写真が無い。。。

住みやすさと、外からの思い

たまたま「地方の駅舎が魅力の無い建物に変わっている」というブログがタイムラインに流れてきたので、シェアしたのだけど、この問題は複数の課題があるなと思う。

古い建物は景色に馴染み、雰囲気もあるし景色として素敵だ。しかし、冬は寒く、トイレなども使いにくい場合が多い。一方で、建て替えられた建物は魅力が無く、モノによっては物置の様。ただし、無駄な段差などは無く、トイレも綺麗になっているかもしれない。(個人的にトイレ重要。笑)

毎日使う側にとっては、見た目よりも使いやすさだったりする。外野の声は外野でしか無いのだろうと思う。
だって、そこで日々生活する人が求める物を、拒否する権利は全くないのだから。

10年以上前にCETエリアに出会った時、とても魅力的な建物に多く出会った。ちょうど六本木ヒルズが建った年に、開発の波から取り残された昭和の建築物は、とても手が込んでいて素敵なモノが多かった。
でも、オーナーはどこか恥ずかしそうだった。時代遅れとしか思っていないのだろう。初めはそうした物件を紹介せず、2000年当時のワンルームマンションの様な部屋ばかりに連れて行かれた。『この街にもこんな部屋もちゃんとあるんだぞ』と言わんばかりに。

結局、少しずつ「僕らの好きなモノ」を伝え、理解してもらい、多くの物件に出会えた。今も残っているモノ、この10数年の間に取り壊されたモノ、いろいろある。

コスガビルが取り壊される時、色々と騒いだこともあるのだけれど、それを持つ会社の経営まで口を出せないことを知ることで何も言えなくなった。
少し納得したのは『今、あなたが守りたいと言っている建物も当時は最新のモノ。未来により良い建物が生まれることを期待することが大切』という言葉をアフタヌーンソサエティの清水さんからもらった時。

歴史的な建築物であろうが、雰囲気のある建築物であろうが、外野と当事者とのギャップは大きく感じる。

「Tokyo Art Navigation」トーキョー・アートスポット

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東京をめぐる No.007
クリエイターが変える、馬喰町・東日本橋周辺
http://tokyoartnavi.jp/spot/039/index.php

CET-TRIPの活動を紹介頂きました。