旅の途中で見る旅立ちへの夢。人生を旅と認識すると、見える景色が変わるのだろうか。

ラジオで川田十夢さんが、「一人旅はいつでもできるんですよ」みたいな話してて、ちょっとドキッとした。

なんとなく現状のモヤモヤ感から抜け出そうと、もがく上でどこかへ物理的な移動をしたい(どこか物理的に逃げたい)と考えていたからこそ、ちょっと気になる話題。

SNSの影響でひとりでも一人旅にならなかったり、逆に大勢の中でも鮮明に記憶が残る経験は一人旅で得るものに似てる。的な。(ちょっと違うかもだけど。w)

だけど妙に何かが僕を刺激した。言葉が刺さるという感じでは無く、見まいとしていたモノに気づかせてくれた感じ。

どこかへ旅をしたいと思う気持ちは、どこから来ていて、どこへ向けられているのか?
物理的な移動は発想を増加させると言うけれど、それは結果論であることが多くて、実際に旅に出させた気持ちは逃避に近い欲求が本音なのでは?と思う。

劣化する記憶を都合よく上書きすること

一人旅の記憶は美しく残るけれども、それを得る目的で旅に向かった訳ではない。予定外・想定外の刺激を、衝撃の形のひとつとして美しくさせるのではないだろうか?
その記憶は本当に美しいものだったのだろうか。記憶のシャープさが弱くなり始めると同時に勝手な美談へと修正(もしくは創造)されている気がする。

実際に「思い出の地の景色」ってそんなガッカリ感を受けることが多い。「前に見たあの景色、もう一度見たい」と追いかけた結果、思ったより普通の景色だったり、ちょっと小さな景色だったり。思っていたのとは異なる事が多い。「美しい記憶」は美しいままに記憶で止めておくのも良いことかもしれない。いたずらに現実を押し付ける様な無粋なことをする必要は無い。破壊するのはいつも自分なのだが。

この法則は「残念な同窓会での再会現象」とでも例えたい。

再会さえしなければ、美しいあの時の姿を更に好みの形へと修正された記憶のままに人生を続けることができた。
同窓会へ足を運んだばかりに、無残な現実が高解像度の三面記事的な情報へと上書きされていく。そうなると、上書き前の記憶なんて二度と読み込みできない。

過去の美しい記憶なんてそんなものかもしれない。

人は日々変わり続ける。日々を船旅に例えた糸井さんのコラム

その糸井重里さんのコラムと重ねれば、人は常に旅の途中なのかもしれない。
それも一人旅。
恋人が居たり、家族が増えたとしてもずっと続けている一人旅。人生は常にその途中であって、旅を終える=永眠。ということか。

旅に出たいという欲求は、旅の途中で見る夢として少し滑稽ではないか?旅先の景色として、今立っている場所から何が見えるのか?それを認識することが大切なのだと思った。