都市の変化と経済と文化と生活

昨日、CETエリアでのシンボルとしての場が、またひとつ灯りを消した。これも変化の一つで、変化が無いのも停滞な訳で、新たな扉としての締めくくりなのだと自分を納得させたりしている。

そのクローズの場で「以前トークを聞きに来ました」という方と会って、少し話をしたのだけれども、その時「CETエリアもアーティストが入り込んで注目を浴びたからマンション増えたのでしょうか?」という問いを受け、「違う文脈ですね」と答えつつ、色々と自分なりに考えてみた。

上のストーリーについては、NYの「SOHO」や「DUMBO」を指している話なのだけれども、NYの2地域は衰退した街に安い家賃を理由にアーティストが住み活動を始めたことで、文化的にピックアップされた上で様々な商業的な活用があって盛り上がった(ざっくり)というカタチと個人的に見てる。商業的に活用されたって見ることも出来ると思う。

CETエリアの流れは?

CETエリアも歴史的には「問屋街」という機能を持った地域であって、時代の流れからその問屋という機能はカタチを変えていく中で、物理的な空間を必要としなくなったり、世代交代の中で空いたビルや部屋が増えていたのが2003年前後かな。

そこで僕らが街に出会い、その空き空間を使いながらイベントをして、その延長で自分たちに合った空間を見つけた人たちがアトリエや事務所、店舗、住居を持ち始めたのが2009年頃かな。本当の初期は、OPEN Aの馬場さんが事務所を構えたのが2003年。その隣にCET的な温度を持った場所として「bigote(今はコレドの裏にある)」が出来たのが2006年9月。

CETエリア内には倉庫としての機能も持った小柄なビルも多く、適度な広さに必要十分な天高という理想的な場所として、ギャラリーが入ったりも同時期。

そもそもスペック的に優れたエリア

CETエリアは、ここ2〜3年でマンションが乱立。仮囲いには「完売御礼」の文字が踊るので売れ行きは良い。その上で、このマンションが売れる理由に「文化的な価値の高まり」があるかといえば、それは全く無い。

マンション販売の謳い文句は「地下鉄路線の数」「東京のど真ん中」と「神田や日本橋」という歴史的ブランドという感じ。「歴史」部分に「文化」は触れていそうだけれども、実際には上っ面だけの薄っぺらい謳い文句だったりする。

このマンションの乱立に「文化」は関連していない。それより都心部の一等地が開発に取り残されたままだっただけ。ちょうど先の「問屋機能の変化」「世代交代」が重なり、大型の土地も手に入れやすい状況もできていた。
東京オリンピックもあって、都内の土地バブルはあっという間に広がった。スペックを見る限り売れない理由は無い。これは住んでる立場からの実感値。

話は変わり。。。

大手による土地の買い占めは終了。新規の建築計画は残るものの、ちょっと色は変わってきそうな予感。

一方で実質投資用の物件だった為か、賃貸の飽和が始まりつつあるのか、ここ数ヶ月で都内の家賃の低下が見え始めたとも聞く。借り手の無い投資物件の家賃下落は想像以上に早いかも。

適度な広さのビル物件は、用途変更も含めて活用方法に広がりがあったけれど、オートロックで制御された住宅マンションの空洞化は、違法的な場となる危険性もある。オーナーも地域平均より高い金額で借りてくれるならと、審査甘く入れてしまうのは、投資物件として見れば起こりうる流れ。これ、地域としても恐いけど、一番の被害者は同じマンションに住む住人。

ちょうど火曜日にそんな話を千代田区の方々とした。起こらなければ良い事ではあるし、先に何らかの対策はあっていいと思う。なにより地域のコミュニティの強化は治安だけでなく、ブランドにも繋がる。

さて、家賃崩壊と聞くこの先にどんな未来が待っているのか?

マンションポエムが生まれた理由を考えてたら、祭りや運動会の騒音苦情問題が生まれる原因こそがマンションポエムかも…と思った話。

マンションポエムについて話題になったので思考を巡らせたメモ。

マンションポエムはマンション広告に載ってる、イメージコピーというか、前後の接続を無視した感じの結論の無い文章。

俵万智さんとか、谷川俊太郎さんが、本気でマンションのコピーをうたったらどうなるのだろう?とか興味はある。

で、マンションポエムの意味不明感は、実は「詩」の理解のされかたのひとつの形式なのでは?と思った。
文化的なモノって、理解しようとする前にすでに持ち合わせている語彙の中で無理やり解釈をしようと結論を出す人は多い。

代表されるのは「ピカソ」の絵を見て、『私にも描けそう』というのも、グチャグチャに適当に絵の具を走らせて『ピカソ風』という感じ。

つまり、マンションポエムはこの「詩」バージョンなのでは?

それにしても、広告としてバンバン印刷され、DMに、新聞広告に、電車の広告にと、世間の目に触れる機会が多いのはちょっと辛い。
圧倒的なボリュームで迫った結果、ひとつのジャンルみたいにはなってると思うけれど、これどうなんだろう?数があれば成立出来る強みなのかもね。

それで、なぜグチャグチャに言葉を並べたマンションポエムが、マンションの広告にばかり使われるのか?
これはマンションという商品自体が、実は同じような立ち位置にあるからこその相性の良さなのでは?という仮説。

不動産としてマンションを購入する時、他の投資と同じで複数ある方がリスクが分散出来る上に、身動きも良くなる。
ただ、こうした視点で見る人の方が稀だよね。

マンションを購入する人は、そこから利益を得ようとすることを考えず。
どちらかというと、住居として住まいを手にいれる。賃貸より持ち家。というなんか冷静に考えると、あまりメリットの無い目的に向かって盲目的にマンションを手に入れようとする。

社会の流れがそうさせてる感じはあるけれど、人生で一度の買い物!みたいな感覚は少し思考を停止させる怖さを持つ。
実際高額なプライスは付いているし、これを購入することで社会的ステイタスが一段階上がったような気分になる。実際責任も多々負うわけで、今までの生活とは確実に変わるのは確実。そんな心境だろう。

この心理の中にいる人に向けた広告ってどう出すだろう?

そう考えると、実はあまり具体的なコピーを書きたく無いのが販売側の心理。マンション(分譲地もそうだけど)は大型化すればするほど、とにかく数が必要になる。
少しでも購入に興味があれば、その目的とか思いとかどうでも良くて、ローン審査さえ通ってしまえば、ありがたいお客様ですよね。

だとすると、あまり具体的な宣伝文句は人を選ぶことになる。
少しでも「?」が頭に浮かんだだけで、この高額な商品を選ば無いという客層は多いだろう。それこそ「一生に一度」なのだから、すべてに於いて満足した商品を購入したい。

となると、当たり障りなく、読み手側が勝手に「良いように解釈してくれる」キーワードが並んでいれば良い。

日常では使わない様な難しい「言葉」だったり、難しい「漢字」だったり。さらには、どうにでも捉えられる(でもポジティブ方向へ)という言葉を羅列させれば、勝手にそこでの生活を良い方向へ妄想してくれる。

そこに住むことがステイタス!となれば、もう完璧。

でもさこうした売り方が、街の祭りや小学校の運動会に苦情だしたりする住人を生む気がするんだよね。

苦情出す人が問題なのではなくて、実はこうした勝手に妄想させる商品イメージの植え付けが、勝手なそこでの生活を妄想させて、少しでもその妄想した生活と異なるノイズは苛立ちを感じてしまう。仕方ない構図じゃない?

出来る限り多くの様々な層を取り込もうとした結果、誰もが勝手に解釈できるマンションポエムが与える悪影響って方向性も議論して良いのかもしれないね。