極論で選択をすると実は選択者本人が苦しくなり、そしてその周りもついていけなくなる。

たまたま「極論はツラくなるよね。」という話題があって…。
この時の話題になった対象だけでなく、最近いろいろなところで出てくる話題だなと、そんなことを思った。

この時の話題は「食事」の話だったのだけど、「あれが悪い、これが悪い」で完全に排除していってしまうと、食べれる物が限られてくる。だけでなく、食べたい時に食べる機会を逃したり。食事が苦痛になったり。

それたぶん理想としてる何かと、現在自分が於かれている環境とのギャップが激しすぎたり、矛盾があったりするんだよね。

自分の生活の環境の中で、いろいろな物と付き合いながら、偏ることなく無理の無い付き合い方が出来た方が食事自体を楽しめるよ。

生活していく場所の選択も同じだったりする。

住まいもそう。田舎暮らしを選択したところで、たまには都市部に通うことがあって良いし、趣味や興味が散らばっていても両面を知る人にとっては自然な話。
「田舎に行ったのだからそこで満足出来ないのはおかしい」みたいなのも極端すぎる話で、先の食事に例えるなら「そこの生活を楽しめなくなる」だけだろう。

頑なに頑固にそう自らを押しつける人も見るけれど、選択肢や可能性を狭めているだけで、ちょっと勿体無いと思うこともあった。

何かしらの選択をしたところで、全てがそこに巻き込まれる必要はない。

「それじゃ中途半端だ」って声もあるみたいだけれど、いやいやそれこそが人間じゃないのかな?
いろいろな物事に興味を持てる人こそ、広い視野ながらの正しい選択ができる時もあると思うよ。

偏った視野で判断する危険性に危機感を持っても良い。

都心部の文化や流行、情報の速さや、エキサイティングなエンターテイメントも好き。その上で、田舎にある静けさや澄んだ空気、青い海が好き。
そんな答えも、自然な一人の思考でありえると思う。それを選択し、実現するひとも居る。

東京で育った僕は北海道の自然に2ヶ月で飽きた。

あの土地で人との出会いがなかったら、しばらく北海道に残れなかったと思う。
ウェブや雑誌を賑わす最新情報は、すべて海外か東京の話。やっぱり東京の事に興味が向く。
東京に来れば「北海道はいいよね。美味しいもの多くて。」って話も全面的に「だよね!」と同意はするけど、やっぱり僕にとっては両者のバランスがあることが前提だったかもね。

八王子で育ったってこともあるのかも。都心部に行くのも近く、自然に出会うのも近い。なんとなく生活圏に両者があった。

でもやっぱり、誰もが「ぱっと思い浮かぶこと」というイメージは、薄っぺらいんだよね。だからそれだけを追いかけると大した深みは無い。
「北海道=大自然」みたいなのはそんなに面白くなくて、知らなかった文化に出会った時の方がワクワクした。人の興味ってそんなもん。

変化に対しても極論は避けた方がいい。

人が「今日からこんな人間になります!」と言ったところで、実は何も変わらないのと同じで、極端な変更は本人も含めて誰もがついていけない。デジタルに白黒変わるモノじゃない。人もモノに対するイメージも。

『街を変える』みたいなことも、あまりにも極端な考え方は危険だよね。今までのモノもあって、新しいモノも取り入れる。そのバランスがとれてこそ、新しいカタチなんじゃないかなって思うよ。

街の魅力を引き出すのは、客観的な視点と、熟知した視点。若者が暮らしたいと思う街をつくろう。

「まちづくり」をキーワードにいろいろ調べると、「高齢化」が問題となっている場が少なく無い。というか多い。
ただし、日本の若者の数が0になるわけじゃ無い。割合として高齢者が増えているという状況。

その結果としての政策が、ども選挙対策にしか見えない。

数の減った若者を取り入れようとするのでは無く、高齢者の為の施設の増設や、そうしたサービスの整備や補助。

これ、若者増えなくない?
というか、高齢者の為の街が出来るだけだよね?そりゃ高齢化するのが自然。

箱を運営したり、サービスを強化するにもお金が必要。税金として確保出来なければ国に頼るしかない。そこに若者が居なければ、自立できない自治体となるのではないだろうか?極論ではあるけれども。

冷静に考えたら、若手を増やす政策が必要じゃないか?

人口として全体的に若手が減ってる。というより高齢者の割合が増えていく(医療の進歩として病気などのリスクが減ってる。環境も良い。という意味で減らない結果)状況がある。(65歳以上の割合が増えるなか、後の30年後はどうなるのだろうか…。現在の40代も多いけどね。)

本来は高齢化問題に対しての、若手世代の奪い合いのはず。でもそうした政策って後回しであったり、老人に対して規模が小さかったり。
そんな街で若者は生活をしたいと思うのか?という単純な疑問。

誰もが必ず年をとる。高齢者という年代になる日は来る。だからといって、そこに焦点を当てた政策ってサスティナブルには見えない。

若手を失った街に未来が明るいとは言い難い気がする。

世界は狭くなっている。どんな環境であっても条件が同じであれば、どんどんと少しでも魅力的な土地へ出ていく。そこで生活をしていく事のハードルは低くなっている。『若手が未来を見出せる土地なのか?』それを突きつけられている。

そう、ライバルは国内の都市ではなく、地球規模に全世界なのだと思う。若者はフットワーク良い。興味や好奇心に対する正直さも明確。

自治体はその視点を持てるか否か?

老人向けサービスを手厚く揃える政治には、選挙的な問題があるのかもしれない。この老人天国な社会を描ければ、「65歳以上に住みやすく」なんてスローガンで当選確実になるだろう。

ただ18歳に選挙権が与えられた今こそ、若手に対する魅力的な街づくりが必要だ。

それは「箱」を作ることじゃ無い。お金を配ることでも無い。
唯一「やりたいと思うコトにチャレンジ出来る『街』」なのでは無いだろうか?チャレンジする為の環境は想像以上に難しくは無い。

子育ても仕事も、趣味や遊びだって充実した共存が出来る政策。地方ほど、そして規模が小さい街ほど、そうした未来を考えて実現させることが本来は容易いはず。

求められているのはひとつ。「若者が生活したい街」をつくる。

『「この街で生活してみたいな」と思う要素って何?』という疑問を持つだけで、それぞれその街の持つ魅力を大きな武器にできることに気づく。

それは今まで見られてきたイメージに固執するのではなく、ゆるやかに客観的な視点と、街を熟知した人間とのタッグが最強。

「未来が見え無い」と言う人の瞳に、爺婆の馴れ合いの上のやりたい放題な政治の現実が写っている。地方の都市で20代の意見が通りにくく、その解決案として海外に目を向ける状況をずっと見てきた。

マンションポエムが生まれた理由を考えてたら、祭りや運動会の騒音苦情問題が生まれる原因こそがマンションポエムかも…と思った話。

マンションポエムについて話題になったので思考を巡らせたメモ。

マンションポエムはマンション広告に載ってる、イメージコピーというか、前後の接続を無視した感じの結論の無い文章。

俵万智さんとか、谷川俊太郎さんが、本気でマンションのコピーをうたったらどうなるのだろう?とか興味はある。

で、マンションポエムの意味不明感は、実は「詩」の理解のされかたのひとつの形式なのでは?と思った。
文化的なモノって、理解しようとする前にすでに持ち合わせている語彙の中で無理やり解釈をしようと結論を出す人は多い。

代表されるのは「ピカソ」の絵を見て、『私にも描けそう』というのも、グチャグチャに適当に絵の具を走らせて『ピカソ風』という感じ。

つまり、マンションポエムはこの「詩」バージョンなのでは?

それにしても、広告としてバンバン印刷され、DMに、新聞広告に、電車の広告にと、世間の目に触れる機会が多いのはちょっと辛い。
圧倒的なボリュームで迫った結果、ひとつのジャンルみたいにはなってると思うけれど、これどうなんだろう?数があれば成立出来る強みなのかもね。

それで、なぜグチャグチャに言葉を並べたマンションポエムが、マンションの広告にばかり使われるのか?
これはマンションという商品自体が、実は同じような立ち位置にあるからこその相性の良さなのでは?という仮説。

不動産としてマンションを購入する時、他の投資と同じで複数ある方がリスクが分散出来る上に、身動きも良くなる。
ただ、こうした視点で見る人の方が稀だよね。

マンションを購入する人は、そこから利益を得ようとすることを考えず。
どちらかというと、住居として住まいを手にいれる。賃貸より持ち家。というなんか冷静に考えると、あまりメリットの無い目的に向かって盲目的にマンションを手に入れようとする。

社会の流れがそうさせてる感じはあるけれど、人生で一度の買い物!みたいな感覚は少し思考を停止させる怖さを持つ。
実際高額なプライスは付いているし、これを購入することで社会的ステイタスが一段階上がったような気分になる。実際責任も多々負うわけで、今までの生活とは確実に変わるのは確実。そんな心境だろう。

この心理の中にいる人に向けた広告ってどう出すだろう?

そう考えると、実はあまり具体的なコピーを書きたく無いのが販売側の心理。マンション(分譲地もそうだけど)は大型化すればするほど、とにかく数が必要になる。
少しでも購入に興味があれば、その目的とか思いとかどうでも良くて、ローン審査さえ通ってしまえば、ありがたいお客様ですよね。

だとすると、あまり具体的な宣伝文句は人を選ぶことになる。
少しでも「?」が頭に浮かんだだけで、この高額な商品を選ば無いという客層は多いだろう。それこそ「一生に一度」なのだから、すべてに於いて満足した商品を購入したい。

となると、当たり障りなく、読み手側が勝手に「良いように解釈してくれる」キーワードが並んでいれば良い。

日常では使わない様な難しい「言葉」だったり、難しい「漢字」だったり。さらには、どうにでも捉えられる(でもポジティブ方向へ)という言葉を羅列させれば、勝手にそこでの生活を良い方向へ妄想してくれる。

そこに住むことがステイタス!となれば、もう完璧。

でもさこうした売り方が、街の祭りや小学校の運動会に苦情だしたりする住人を生む気がするんだよね。

苦情出す人が問題なのではなくて、実はこうした勝手に妄想させる商品イメージの植え付けが、勝手なそこでの生活を妄想させて、少しでもその妄想した生活と異なるノイズは苛立ちを感じてしまう。仕方ない構図じゃない?

出来る限り多くの様々な層を取り込もうとした結果、誰もが勝手に解釈できるマンションポエムが与える悪影響って方向性も議論して良いのかもしれないね。